
梅雨も明けぬうちに、時折見せる日差しの中にすっかり暑い夏を予感させる気配が色濃くなってきました。夏の時期、鈴懸の店頭には涼を感じていただけるお菓子が並びます。水羊羹や蜜豆など冷やして食べていただく菓子も多く登場する中、季節を映す上生菓子「観世水(かんぜみず)」は、白から水色に移る色合いをした澄み切った水を思わせる渦が波紋となり広がる紋様で、目にも涼やかさをお届けします。この「観世水」の味わいは、白小豆こしあんの入った外郎(ういろう)製となりますので、重さを感じない程よい甘さの仕上がりとなっています。“外郎”と聞けば、今では名古屋のお菓子として知られていますが、実は博多が始まりであったことをご存知でしょうか。鈴懸の本店がある博多・上川端町からほど近い御供所町に、“ういろう伝来之地”の石碑が立つ妙楽寺の住職 渡邉亮英師に、当時の様子が記述された『石城遺宝』という書物を見せていただきながら外郎伝来の背景について、お話を伺いました。

海に面した博多の地はその昔、今でいう中国の王朝、元との日元貿易の中心地でした。当時の妙楽寺は博多の湾
岸に位置していたため、妙楽寺はその交易の大事な拠点を果たしていたのです。元から明へと王朝交代の激動の最中、皇帝の大医院並びに礼部員である“外郎”という官職で、医者の陳 延祐が日本に亡命して妙楽寺に寄留したといいます。“外郎”とは、そもそも元の官職名だったのです。亡命して以来、自身を陳 外郎と名乗るようになりました。この陳 外郎(延祐)の一族が作っていた薬 “透頂香(とうちんこう)”が、とても苦いながらも万能薬として大層評判となり、時の将軍、足利義満に献上されるほどだったのだそうです。この薬が世に広まるときに “透頂香”ではなく “外郎”という名前で広まっていったとされています。しかし、私たちが普段耳にする外郎といえば、薬ではなくお菓子の名前。なぜ現在では薬ではなく、外郎はお菓子として知られているのでしょう。そのいきさつは、あまりにも古い時代のことのため記述や言い伝えも曖昧さがあり、定かではないものの、妙楽寺で拝見した古い書物に記されているように、薬である透頂香(外郎)が将軍に献上されたことに始まるのは確かなようです。妙楽寺に寄留した陳 外郎の一家は、のちに一部の者が貿易商人として博多に残り、本家は政治の中心であった京都へ移ります。外郎家は高貴な方や外国の使節団などをもてなすために、当時、薬と同じように貴重であった砂糖を使ったお菓子を作っていました。やがて応仁の乱の混乱を逃れるため、さらに小田原へと移っていきます。小田原の地へ移った小田原外郎家でつくられていたお菓子そのものを、いつからか「外郎」と呼ぶようになり、今では「外郎」といえばお菓子の名前として知られることとなったとされています。
さて、話を鈴懸の「観世水」に戻しましょう。妙楽寺の住職にお話を伺えたことで、外郎で作られた上生菓子「観世水」に博多ゆかりの歴史的背景があることを知ることができました。上生菓子は舌で味わうだけでなく、目で味わうのも大切な趣。「観世水」は、渦を巻き流れていく水面の様子を外郎であらわしています。このお菓子名のなっている「観世水」とは、能楽の宗家 観世家が、京都にあった屋敷の井戸に渦を巻いて水が湧いている様子をかたどって定式紋様とし、能衣装などに用いられたのが始まりです。古くから浄めの意味をもち、流れる水は常に清らかなことから、水の渦を映した観世水は穢れを払う吉祥紋様でもあるのです。博多の地で営む鈴懸がお作りする「観世水」には、味わいに遥か昔の博多の地から始まった歴史の足跡と、菓子名には暑い夏の時期も皆様が水のように清らかに健やかでお過ごしいただけるようにとの願いを込めております。
取材・撮影協力:臨済宗大徳寺派 妙楽寺 住職 渡邉亮英師
参考文献:石城遺宝
観世水:7月8日から26日販売予定
